「兎姫レプス」(前編)
「此方で御座います」
夕食を終え，広間でノスタルクと別れたフェブルは，兎の耳の若い巫女に連れられて，
客用の部屋に入った。
「うん」
客室は深緑色が基調の，要所に鈍い金色をあしらった重厚で豪華さに溢れていた。
高い天井からは金色の豪勢なシャンデリアが垂れ下がっている。
冬には火が入るのだろうか，左手の壁の中央に暖炉が設置され，その前にソファーと，
テーブルがセットされている。
「後ほど祭祀長が参ります。それまで御寛ぎ下さい」
「うん」
調度品も装飾品の絵画や彫刻も，全て重要文化財の如き豪華さを誇っている。
右手の壁の中央には巨大なベッド。
そして，その脇にはライティング・テーブル。
出窓のある木枠の入ったガラス窓には白いレースのカーテンが掛かっている。
レースのカーテンの上には，金色に塗られた木製のレールに吊るされた厚手のカーテン
があり，現在は両脇に寄せられている。
カーテンレールの両端，ギボシの部分には，翼を広げて火を吐いているドラゴンが彫り
込まれている。
「では，失礼致します」
フェブルは荷をクローゼットに片すと，赤いソファーに身を沈めた。
そして30分ほど目を瞑り仮眠を取った。
トトトン。
「祭祀長のアヴェタ・ケシ（AVETA-KESHI）で御座います」
扉の向こうで，くぐもった幼い女性の声が聴こえた。
「どうぞ」
少なく見積もっても齢600歳を超えるであろうクレルグルの祭祀長が重い木製の扉を開
いて入ってきた。
「失礼致します」
それに続き，ワゴンを押した先ほどとは別の巫女が入った。
「どうぞ御座りを」
フェブルが姿勢を正しながら老祭祀長に椅子を勧める。
「では」
祭祀長が白いレースの掛かった赤い一人掛けの肘掛け椅子に深く腰を下ろす。
「先程は生憎出払っておりまして失礼致しました」
「此方こそ急な訪問で申し訳なく思っている」
「こんな辺境の地に黒太子殿下を御迎え出来るとは，我がガブリ教団にとっても，真に
光栄の至りで御座います」
祭祀長が愛想の良い笑顔でフェブルに話し掛ける。
「うむ。皇帝陛下からの勅命を受け，ウェセロアを平定することと相成った」
「先程ノスタルク殿下からも，そのように御聞きしております」
「うむ。迷惑とは存ずるが暫く世話になる」
「迷惑などとはとんでもない。暫くと仰らず，いつまでも御滞在下さい」
祭祀長アヴェタのニヤけた表情に（「食えない爺さんだな」）とフェブルは感じた。
「私は準備が整い次第，火竜神ハウルとの交渉に向かうこととなる」
フェブルは，正体は兎も角，一応は人狐族出身の宮廷魔術師ということで知られている。
幾ら皇帝から親任されているとは言え，所詮古代ルクレア以来の家系を誇るクレルグル
とは血筋が違う。
換算年齢からしても，父と子ほどにも差があるだろう。
「不在中，殿下の守護を宜しく御願いする」
「了解致しました」
「レプスです」
アヴェタ祭祀長が，フェブルに，自分自身より一歩後ろに控える巫女を紹介する。
柔らかいソファーから立ち上がりもせず，フェブルが軽く会釈をする。
運んできたワゴンを横に動かし，レプスと紹介された巫女が深々と辞儀をする。
「これから暫くの間，フェブル様の御世話を命じております」
「ん？」
「如何様な御命令でも御遠慮なさらず御申し付け下さい」とアヴェタ祭祀長。
「解った」
「宜しく御願い致します」
レプスと呼ばれた巫女が初めて口を開いた。
緊張しているのか，幾分聴き取り難い小さな声だった。
「巫女は皆，一様に色白だな」
フェブルが祭祀長に連れられてきた兎族の巫女レプスを初めて見たときに言った言葉だ。
「はい」
故意に白浮きさせたかのような顔立ちに長い薄紅色の髪を真っ直ぐ腰の辺りまで下ろし
ている。
長い兎の耳を隠さず，しかもアーモンド型の赤い眼もそのままに。
目の前に居る，この神殿の巫女が，人兎以外の何者でもないということは，フェブルで
なくとも看破出来る。
黒に白のフリルを多用した服装に銀の装飾具を着けている。
「夏は茶褐色だと聞いていたが」
通常，兎族の体毛は茶褐色であり，積雪地帯，それも冬のみ白くなる。
但し，それは野兎族の場合であって，穴兎族の王族は１年中白い体毛をしている。
どうやらフェブルは，その辺りを少し誤解していたらしい。
実際には，兎族は大別して小柄な穴兎族と大柄な野兎族に分かれる。
穴兎族には多様な種族が存在する。
白と黒，白と茶，あるいは白と黒と茶３色の体毛を持つ種族。
短めの耳に丸っこい顔の小柄な種族。
耳が垂れて長い大柄な種族。
毛の長い大柄な種族。
白く短い毛に赤い眼の大柄な種族。
どうやらレプスは最後の種族に当たるらしい。
「では，私はこの辺で失礼させて頂きます」
祭祀長がフェブルに軽く一礼し，レプスに何やら目配せをすると，部屋を出ていった。
「失礼します」
レプスがワゴンから銀のプレートを取り出す。
取り出したプレートの上から神殿の紋章がコテで焼き付けられたコルクのコースターと，
20×20×５ほどの金色の木箱をテーブルに移す。
その上に蒼い硝子のゴブレットを乗せる。
麻で出来たキャリーバッグの中から銀のワインクーラーに入った葡萄酒を取り出す。
オープナーで実に器用に，殆どコルクを傷めず抜栓し，ゴブレットに並々と注いだ。
木箱の蓋を開け，一番上にあった厚紙，そして蝋紙と共に横に置く。
「どうぞ」
「うん」
「御口に合いますかどうか」
「私に葡萄酒の出来不出来は判らんよ」
フェブルが笑った。
「御謙遜を」
「私に貴族趣味はない」
ゴクゴクゴクと，フェブルが葡萄酒を飲み干す。
「ほらね。作法も何も知らない」
「もう１杯如何ですか？」
「頂こう」
レプスがゴブレットに赤い液体を注ぐ。
「こちらも如何です？」
「何だ？」
「この地方で作られております菓子でチョコラテと申します」
レプスがゴブレットをコースターに戻し，木箱の中の枡状に区切られた一区画から金色
の紙に包まれた物体を摘み上げる。
「ほう」
レプスが包み紙を取り去り，黒い物体を口に放り込む。
「甘い」
「はい」と，レプスが極上の笑顔。
「そこに掛けなさい」
フェブルが傍らに侍るレプスに掌を上向きに返して対面のソファーに座るよう促した。
「はい」
レプスが先ほどまで祭祀長が座っていた肘掛け椅子に浅く腰掛ける。
「ゴブレットは１つしかないのか？」
「いえ，御座います」
「レプスも飲んでくれ」
「はい」
「失礼します」
レプスが立ち上がり，ワゴンから自分用にゴブレットとコースターを持ってくる。
「さあ，飲みなさい」
フェブルがレプスのゴブレットに葡萄酒を注ぐ。
「有り難く頂戴致します」
レプスがゴブレットを傾ける。
「チョコラテも」
「はい」
「こんな美味い菓子は生まれて初めてだ」
「チョコラテはウェセロアの東部で栽培されているカカオという豆から作られているそ
うです」
「ほう。東ウェセロアでか」
「甘みには北東諸島から輸入されたシュガルを使い，これは西ウェセロアで製造された
ものだと思います」
「ふむふむ」
「ミルクを使う場合もあります」
「なるほど」
「はい」
「飲ませておいて何なんだが，他の仕事は良いのか？」
「はい。私はフェブル様専属のメイドですから」と，にっこり。
「そうか。それなら，もう少しウェセロアのことを教えてくれるか？」
「はい」
レプリが立ち上がり，ベッド脇のライティングデスクの引き出しから１枚の地図を取り
出し，テーブルの右端に開いた。
「ウェセロアは人口4000万，面積は42万平方キロで，大部分が亜熱帯性気候に属してい
ます」
「ふむふむ」
「南部の海岸沿いから乾燥した砂漠地帯が広がり，大陸中央にあるレヴィを始めとする
幾つもの活火山が存在します」
「ハウルの棲む山か」
「はい。今から４年前，翼竜に挑発されたハウルは，レヴィからコンストルプル・ラル
コムプレフェ，レアルマに掛けてを破壊し尽くしました」
「死者，数十万。未だ復興出来ずか」
「はい。その後ハウルは再びレヴィの噴火口に消え，傷を癒していると思われています」
「生きているのは確実なのだろう？」
「そう思います」
「ソセロアには巨大な野獣やドラゴンが棲んでいます」
「ドラゴンというのはハウルの眷属サラマンダーだな？」
「多くは。しかし，それ以外にも」
「ジャングルとサバンナには数多くの獣人も棲んでいます」
「兎族もか」
「太古より兎族は女王陛下を頂点に，女系王国を連綿と維持してきました」
「ほう」
「女王は穴兎族から選出されます」
「それ以外の王族は須らくガブリ神殿に巫女として仕えることになっています」
「なるほど」
フェブルがレプスに２杯目の葡萄酒を注ぐ。
「有難う御座います。ソセロアのガブリ神殿に仕える巫女は全て私の姉妹です」
「うん？」
「つまり王族ということになります」
「ふむふむ。レプスは兎王国の姫様だったのか」
「109番目のですけどね」とレプスが小さく笑った。
「巫女は15歳になるとガブリ様への御供えとされてしまう運命となっています」
「うん？」
「時期女王候補となる10人の姉たち以外は必要ではありませんから」
どうやら兎族は，太古より神々への人身御供として存続してきた種族であるらしい。
「レプスも何れは月神ガブリへの人身御供となるのか？」
「次の満月まではフェブル様に御仕え出来ますね」とレプスが寂しく笑った。
「人身御供は処女でなくても良いのか？」
「はい。そういう規則は御座いません」
「そうか，処女でなくなれば助かるというのだったら私がとも思ったが」
「御戯れを」
レプスがクスッっと笑った。
「逃げることは出来ないのか？」
レプスがフェブルに３杯目の葡萄酒を注ぎ，フェブルがゴブレットに口を付ける。
「はい。今まで御供えを回避したという話は」
「私なら可能だと思うが？」
レプスの境遇に哀れを感じたフェブルはレプスを逃がしてやろうとする。
「私ひとりが助かる訳には」
レプスは姉妹のことを理由に一度は断る。
「それに，こんな尻尾ですし」
兎族は嘗て，古代ルクレア人に逆らわないよう，尻尾を短くされるという屈辱を受けた。
そのため他の獣人たちと比べて明らかに尻尾が短い。
獣人たちで尻尾の短いのは人猿オグルと兎族のみと言って良い。
通常，尻尾を失うということは，獣人たちにとって精神的な打撃となるだけでなく，
攻撃本能をも失ってしまう。
オグルの場合も，古代ルクレア人の奴隷として，叛逆を回避するため，尻尾が伸びない
ように遺伝子操作されていた。
しかしオグルの場合，月面上での，月神ガブリによる再遺伝子操作により，失った攻撃
本能を取り戻すことが出来た。
兎族は攻撃本能を失ったのみならず，完全な人型形態を取ることが不可能となってしま
った。
つまり，長い耳と短い尻尾を隠すことが出来ないのである。
但し，完全な兎形態への変身は可能である。
フェブルはリグヴィルのナギ退治を例に出し，ガブリ神への頚木を断つべきだと力説する。
しかし持って生まれた本能は中々覆せなかった。
「服を脱いで，そこに寝て貰おう」
フェブルはレプスに精油を注ぐ。
ナラブのガブリ神殿には神体として契約の聖櫃と呼ばれる箱がある。
金で飾られた木製の箱の蓋には２柱の天使が翼を広げ，向かい合って祈りを捧げる像が
乗せられている。
移動時は，通常２本のロープが付属した４輪の台車を使用して引っ張る。
しかし，台車で移動不可能な場所は担ぎ棒を差し込み，持ち上げて運ぶ。
フェブルは，この聖櫃にレプスを乗せ，人身御供としてレヴィの火竜神ハウルに捧げよ
うとする。
同盟交渉のための，ちょっとした手土産である。
しかし実際は東ウェセロアの反オグル組織「大地の牙」と繋ぎを取り，途中で彼等に奪
取して貰おうと考えている。
このころ「大地の牙」を率いるマリドやマリリン，ジュディはアドやイイクン等と共に，
前年の4050年，東ウェセロアのフィリスに拠点に構えていた。
数年前からワークリーチャーたちが反オグル組織「大地の牙」を結成，ジャングルに身
を潜めつつ，オグル系の神殿に対して放火略奪を繰り返している。
ウェセロア川では水虎族が，北ウェセロアでは黒豚族がオグルに対してゲリラ戦を展開
している。
そしてミニングル諸族の間にも統一戦線を巡る話し合いが持たれているらしい。
その夜遅く。
祭祀長アヴェタの部屋。
ガブリ神殿の警備隊長が取り乱しながら入ってくる。
「祭祀長様，一大事で御座います！」
「何ごとだ？」
「金庫が荒され，機密文書が消え失せております！」と，警備隊長が既に就寝中だった
祭祀長に経緯を報告する。
「戦いの書（The War Rule）もか？」
「はい」
「金庫番は何をしておった？」
「２名とも猛毒を塗られた吹き矢にて即死だった模様です」
「黒太子か，あるいはフェブルの手の者か？」
「さあ，それは」
「大地の牙かも知れんということか」
「はい」
「未だ神殿内に潜んでいるやも知れん。衛兵に探索させよ」
「はい」
「それから，神殿から出ていくものは全て捕らえ，身包み剥した上で始末しろ」
「はい」
「但し，黒太子や銀狐どもに決して気取られぬようにな」
「はい」
部下が出ていくとアヴェタは独りごちた。
その表情に，フェブルに見せた好々爺の面影は一片もない。
「戦いの書が，12枚の羽を持つ神やオグルどもの眼に触れると厄介だ」
12枚の羽根を持つ神とは，光の神ルシエルを指すガブリ教団内での隠語である。
「５月の聖王エディス１世即位の日までには雑魚を駆逐したいものだ」
「そう言えば明後日は，光暦1344年３月の聖戦終結記念日ですが，黒太子が居座っ
ていては，大っぴらに祝うという訳にはいきませんね」
「当たり前だ」
アヴェタが苦虫を踏む潰した顔で言った。
光暦1344年３月12日 ルクレア聖戦始まる。
光暦1344年３月19日 ルクレア聖戦終結。
光暦1344年４月２日 ルクレア条約成立。
光暦1344年５月８日 ルクレア戦争（－1345年１月４日）
光暦1344年５月12日 エディス１世即位。
光暦1361年７月30日 エディス２世即位。
光暦1365年10月12日 ルクレア帝国成立。
光暦 エディス３世即位。
光暦 エディス４世即位。
光暦 エディス５世即位。
光暦 エディス５世崩御。
光暦 ジョニス，皇位を奪取。
光暦 ルクレア内戦。
光暦 アレクシス１世，ルクレア全土を掌握。
光暦 アレクシス１世，ジョニスを処刑する。
光暦 アディス１世即位。
光暦 オグル，ソセロアに侵攻。
光暦 ウイルス禍がルクレア全土を襲う。
光暦 ルクレア失陥。
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